S45年8月12日夜

    「信心は手ごたえを感じるぐらいの修行が必要」

 御祈念前に末永先生がお届けいたしますのに、まあ取次をさして頂く者に対するでしょうけれどもこれは普通ではいけんのだ、以上の力を受けなければならんのだということだと思うんです。
 けれども橋を渡っているその中心に立っている者は大変な力がいるという事、色んな角度から、色んな詳しくお知らせを頂いたんですね。この橋を渡ってもらうためには、真中にいる者の、は大変な力がいるんだ。でないと渡りかかっている人が渡られんようになる仕掛けになっている(あし?)のお知らせを頂いた。 
 これはもちろん取次者にたいする特別の信心修行が出来、力を得た者でなければ取次の御用は出来ないといった意味だろうと思いますけど、私共信心の稽古をさせていただいてもちろん信心に修行は付き物ですが、修行が間違いなく神様が受けておって下さるんだと思うから、修行の楽しみがある。また、それが成就された時に力を受けることだという事を思います。
 今日、美登里会に私も出席さして頂きましたがいろいろのお話の中に、光昭先生が本部での修行の事についてから発表しとりましたが、ある(こころようかからない?)ことであったけれども、例えば甘いものを食べないという修行をさせていただいていると、周囲の人たちの手前どうしてもそれをツママなければならないというような事があった。
 そしたら早速神様はこの髪の毛が抜けたというお知らせを頂いた。髪は信心が抜けたということ。いかにその光昭先生がひとり修行を受けてござるかという事がわかる。
 また梯子の三段目からスタスタと落ちるところを頂いた。信心がスタスタと下へ、それだけの事で落ちる、言うほどしに、厳びしゅう間違いなく神様が受けてござるということ、私共はそういう例は(いっちょ?)もあります。
 神様はこげんしてまでして受けてござるからとても疎かに出来ない。こうと自分で心にさだめさせて貰った修行を貫くと言う事はそれほどの事、貫くという事が、貫くその暁に受ける喜びとか、それがね、力になるとこう思います。ですから信心は例えば真心なら真心一杯といったようなこと、その真心を果たして神様が受けて下さると思うから,真心の限りを尚更尽くさして居られん事になるしょう。
 熊谷さんが今日見事な鮎を、ああいう、その、まあ、自分の留守中に冷蔵庫の中に恐らく、娘さんであろうが持ってきて下さっとった。だからこれを親先生にと思ったら、持って行かにゃあ居られんけれども、僅か二匹だから、はっと気が引けておったら、そうしたら夕方御親戚から「下関のかまぼこです。」と(   ?  )。それに添えて、真心に多いも少ないもないが、それでも持って行きよいように、真心現しいいように 、神様が働きをみせて下さる、思いを懸けて下さるなあとわかるでしょうが。
 わたしはこのここ4、5日いま暑い(なすかのきゅうに?)おじいちゃん達が、ことしは特に暑いですからね、私の部屋は朝から冷やしてある、丁度いい具合に冷やしてあるすから、あそこにいけといっても、もったいないとか、好かんとかいうて、家内の弟がゴザやらあちらの道具をもってかえったもんだから (何度となく?)あちらに行かせていただいて、もう 夫婦の者がありがた涙にくれて毎日あそこで過ごさして頂いているわけです。  けれども、あそこに一つルームルーラを御陰いただこうと、してもらおうと思うて高橋さんに頼んでおりましたらね。まあそれ、話さないと分からんですけれども、みつおさんに話した処が、ああ、そう、あんたが云よる通りの客殿に据えてあるあれがね、そのーう、ルームクーラーがね、たくさん今年の夏の扱った中に、一台だけしわ寄せになって、その余っとるというか、空になっとるのがある。親戚の誰さんに持っていこうか、教会にお供えしようか迷っよったとこう云うた。
 私の思いを、持つてくるか、持ってこんかは別としてこれから、私の思いが通じたということが分かるでしょう。だから思わにゃ馬鹿らしか、思うわにゃ居られんということになるでしょう。
 信心というのは、そういうひとつの打ち込めば打ち込んだけ、思えば思っただけ、真心を現せば現すだけ、手応えがあるものだ。ですから手応えのある信心、又は修行を感じさせていただくから、信心はいやが上にも楽しいまた有難いということになります。 どうぞ。